二児の母でもある宮田わかなは、地域密着を心がけ、自分のチンドン屋としての夢と子育ての両立を奮闘しながら歩いてきたあしあとが垣間見れる。
また、チンドン不毛の地の南九州の中で、本人が演じるだけではなく、チンドンの魅力を多くの方に広げるまちおこしプロデュースやディナーショーなどの企画・実施なども数多く手がけてきました。
宮田わかなは、これからも南九州唯一のチンドン道を開拓し続けるに違いない。
実績 |
・企業や自治体のイベント出演(775)・講演&司会(249)・街頭宣伝(107)・ワークショップ(333)・プロデュースほか(45)・全国大会(16)
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メディア |
・芸歴25年間の間に、取り上げれたドキュメント 民放(全国版1件、九州版3件、県内版1件 NHK9件)
・芸歴25年間の間に、取材された新聞社や広報誌の件数(宮崎日日新聞71件、南日本新聞13件 朝日新聞8件 、毎日新聞6件、読売新聞5件 、西日本新聞4件 夕刊デイリー5件、日本農業新聞1件 その他広報誌15件)
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1970年
- 宮崎県都農町の長女として未熟児で生まれる。
都農中学校で生徒会長、ソフトボール部キャプテンを任せられ、高鍋高校では陸上部中長距離リーダー、体育祭の応援副団長として活躍。趣味は、懐メロと野球観戦。(ドリフや懐メロが大好きなのは、チンドン屋になるべくしてなったのか?)
1988年
- 宮崎県立高鍋高等学校普通科卒業。
高校時代は陸上部に所属。中長距離のリーダーをつとめる。
1990年
- 兵庫教育大学 学校教育学部に在学中、マラソンのコーチからの一言「人に求めるのではなく、与える人になったら」の言葉で、自分の生き方が変わる。人に笑顔と元気を与える人になると決意する。当時は、テレビ局に就職したく、就職活動にあけくれる。
1992年
- アナウンサーの夢はかなわず、就職したのは、フェニックスリゾート(株)。そこで、女性初の営業マンとして働くことになる。飛び込みの営業、交渉、今考えると、商いを宣伝する街頭宣伝としてのチンドン屋のスキルがこの頃に培われたのではないか?
1995年
- 結婚と同時に、大阪で夢をおいかけて、タレント事務所に入るが、アナウンサーはうからずフリーでイベントの司会や結婚式の司会をしていた。司会をしていたイベント会場で、大阪の「枯れすすき一座」の藤野さんと出逢う。藤野さんの誘いで、夫婦でチンドンをすることになり、屋号を「花吹雪一座」と命名。
独学でアコーディオンを学び、商店街を練り歩くと、子どもからお年寄りまでが笑顔になる。チンドンの魅力にはまりだす。その後、プロのチンドン屋「なにわや」に飛び込み、プロとしてのスタート。
1999年
- プロの全国大会に「なにわや」として出場。全国から集まってきたプロのチンドン屋をみて、感動。奥の深さにはまり、私もかっこいいチンドン屋になりたいと思う。
2001年
- 9月に長男を出産。
- 5月に宮崎県都城市に引っ越す。
2003年
- 宮崎県都城市で「花ふぶき一座」を発足。子育てをしながらの笑顔の花を咲かせる活動からスタート。
- 宮田若奈「窓をあけて九州」に取り上げられる。
- 日本テレビ「笑ってこらえて」で夫婦チンドンが紹介される。
2004年
- 宮田わかなの自宅を地域の子どもたちに開放する「みんなのふれあい広場」を主宰。
- 8年間、我が子と地域の子どもたちのための遊び場として、週1回、ふれあいつづける。のべ実施回数約700回。のべ参加者数は、4000名以上。
- 地域のあらゆる機関やボランティア指導員からの支援で、充実したプログラムを開催。
- 人権同和研究大会で、講演をする。それから教育機関で口コミで講演が広がる。
- 社会福祉法人相愛会 相愛保育園家庭教育学級長(1年間)
2006年
- 宮崎県から初めて「全日本チンドンコンクール」、「全国選抜チンドンコンクール」に、宮崎花ふぶき一座としてデビュー。プロの仲間入りをする。地元のメンバーや賛同者も増え、着実に活動が県内外に広がっていった。
- 都城市放課後子ども教室小松原地区コーディネーター(1年間)
2007年
- 都城市総合文化ホール開館1周年記念イベントをプロデュース。
- 全国からプロのチンドン屋、大道芸人を約40組、地元のダンサーなどを集め、まちなかを回遊させるイベントを企画実施。
- 宮崎県社会教育審議委員委嘱。
2009年
- 宮崎県の女性のチャレンジ賞受賞。
- 宮崎県夢ふくらむ子育て奨励賞受賞。
- 美々津遊悠玉手箱発起人として、日向市美々津でまちおこしイベントを企画。悪天候にもかかわらず、イベントは大成功をおさめる。
- 宮田若奈、「窓をあけて九州」に取り上げられる。
- 都城西ロータリークラブより職業奉仕賞受賞。
2010年
- 宮崎県観光審議委員に委嘱。
- 3月から、都城合気道錬成会に入門。(現在3段)
- 4月口蹄疫で、すべての仕事がキャンセル。
2011年
- 秋から、宮崎サンシャインFMのパーソナリティーをする。番組名「宮田若奈のチンドン日和」(2012年まで)
- 「きらり九州」で取り上げられる。
2012年
- 口蹄疫復興フェスティバルで、九州チンドンショーをプロデュース。春に、事務所オープン。
- ホテルでの「チンドンディナーショー」企画&実施。
- 日本衛生公社宮崎のテレビコマーシャルに起用。
- NHK「いっちゃがゴールド」でコメンテーターをつとめる。
- 都城ケーブルテレビ「HUMAN VOICE」で紹介される。
- 都城市青年会議所主催「都城人間力大賞」受賞。
2013年
- 宮交シティーリニューアルオープンで、九州チンドンショーをプロデュース。
- 宮田若奈、みやこんじょ大使第一号任命。
- NHK宮崎熱時間で「咲かせたい!笑顔の花を」宮田若奈取り上げられる。
- 「島津邸遊悠玉手箱」発起人。都城島津邸に多くの来場者あり。
2014年
- こどもの国「昭和之玉手箱」をプロデュース。
- 吉川書道教室に入門。(現在3段)毎年、秋の書道展では作品を出展する。
- 宮崎県家庭教育サポートプログラムトレーナーに任命。(現在も活動中)
- 宮崎日日新聞客論で執筆。
- 第41回九州地区人権・同和教育夏期講座でパネラーをつとめる。(宮崎市)
- 第1回企画力向上講座「女性でまちを活性化」のパネラーをつとめる。(日南市)
- 小松原中学校ハンドボール部保護者会会長(2年間)
2015年
- 都農町ふるさと大使に任命。みやざき人財養成塾で講演する。
- 小松原中学校サッカー部保護者会会長(2年間)江平えびす祭りで、チンドン獅子で会場を盛り上げる。(現在も継続中)
- 延岡花物語のPRで、十日えびすの会場でビラ配りが始まる。(現在も継続中)
2016年
- 都農神社広報大使に任命。毎月1日、都農町へ帰省して、ふるさとを笑顔にする活動を開始。
- 都城市より産業経済功労賞受賞。
- 宮崎県生涯学習実践研究交流会の副実行院長を任命(現在もスーパーバイザーとして継続)
2017年
- 宮崎県産業教育審議委員に委嘱。
- 陸上自衛隊高等工科学校宮崎県保護者会会長(2年間)
2018年
- 都城市社会教育委員及び公民館運営審議会委員(継続中)
- 学校法人久保学園都城高等学校後援会副顧問(継続中)
- 「私は自分の仕事大好き大賞」作文部門優秀賞受賞。
- 毎朝の「朝チンドン」の動画配信がスタート。(現在も継続中)
2019年
- 鹿児島県さつま町求名「どんぐり市」の10年ぶりの「市」復活サポーターとして動く。イベント大成功をおさめる。(2020年も続く)
2020年
- 都城市の踊りの先生から、着付けと着物姿の所作の学びが始まる。
- UMK よかばんで宮田わかなとりあげられる。
- チンドンで日本を笑顔と元気にプロジェクトを実施。県内の市町村をチンドンでまわる。
- 県民芸術祭「チンドン屋・イン・レジデンス」企画実施。
- 小さな親切運動の「実行章」を受賞。
- 書道3段に昇段。
- 毎月2回発行のフリーペーパー「チンドンわかちゃんのほのぼの日和新聞」スタート。・毎夕の「アコーディオン演奏」の動画配信がスタート。(現在も継続中)
2021年
- 令和3年度みやざきの文化を考える懇談会の委員に任命。
- 合気道3段に昇段。
- 都城市美展に初出展、初入選。「幸の嵐」が市立美術館に展示される。
- 日めくりカレンダー「31のありがとう」を企画&制作&販売。
- 合気道探求vol.62「愛ある笑顔の合気を目指して」掲載される。